「怖いんだ、ホントは」
いつもの美月君からは考えられない台詞に、私は驚いて顔を上げた。気丈な彼が、弱音なんか儚い彼が、世界中のみんなが敵みたいに思っている彼が、そんなことを言うなんて、私には信じられなかった。美月君は気まずそうに眉をしかめて視線をそらした。佐和子さんの長いまつげはいつもマスカラが塗られていて、きれいな形をしている。それに夕焼けのオレンジが反射して、きらきら光った。彼の心とは裏腹に。それは佐和子さんの心のようだ、だって美月君のそれは佐和子さんのものだから。佐和子さんも、確かに少し怖いのかもしれ知れないけれど。だけどそれは春樹や美月君や、ユキさんたちなんかとはまた別のもので、彼女のそれにはどこか光が見えている。少なくとも。
「統合って、俺はさ」
美月君が続ける。私はなにもいわない。夕方の風は冷たい。うつむいた私の目に、包帯を巻いた手首が映る。昨日切った跡。不思議だと思う。私はこの世から音もなく、泡のように消えてしまえばいいと思っているのに、となりにいる美月君は必死に残ろうとしている。もがいて、なにかすこしでも残そうとしている。思考、意識、絶望、光、なんでもいい、彼は何か残して、そこに自分がいたことを証明したいと思っている。私と違って。不思議だと思う。不思議だと思う。
「俺はココに存在しているのに、それ、全部否定されてさ」
そうだね、だけど私はその一言をいうことができなかった。私にはその台詞を言う資格はない。私はここに存在しているほうが怖い。誰かに押しつぶされそうになるのが怖い、消えてしまえることを願う。誰にも知られないまま、誰の記憶にも残らないまま、そうして消えてしまえばいいと思う。思考も意識も、絶望も、光も、全部消えてしまえばいいと思う。そうして誰に記憶に残らないまま、私は、愛することも愛されることもしないまま、苦しむことも憎むこともしないまま、喜ぶことも笑うこともしないまま、静かにいなくなればいいと思った。それが私の願いだから、だから私は美月君の一言一言に何も返さない。反論する気もないけれど、同意することもできないでいる。私は卑怯だ。ごめん、美月君。黙ることで逃げている私を許してなんていえないけど、だけど願うことだけ、許してください。
「それなら俺が佐和子のなかに出てきた意味はなんなわけ?」
そうすることでしか佐和子さんは生きていられなかったからだよ。口には出さない。そうだ、佐和子さんは実は生きるのが好きだ。ああみえて。世の中すべてに排除されているように見えて、だけど彼女は私なんかより何十倍も生きたいと思っている。誰かの隣にいるのが好きだし、誰かに愛されるのが好きだし、すこしでも、ほんのかけらでいいからなにか自分が存在しているということを、誰かに残しておくのがすきだ。そうして生きるのが好きだ。彼女はだけど不器用すぎてそんなことがうまくできなかったから、だから美月君たちが生まれたんだよ。だけどそれをいってしまえば、美月君が佐和子さんの中にいるのは、美月君のためなんかじゃなくて、佐和子さんのためで、美月君の思考や絶望、それに光も憎しみも夢も希望も、佐和子さんのものになっちゃうんだと思う。佐和子さんはだけど、美月君がそんなことを考えたり、していることを知らないでいる。それは多分、幸せなのだろう。だけどそれは美月君の望んだことじゃない。美月君はそんなことになるんなら、いっそはじめから存在しなければよかったと思っている。だけど一度存在してしまったものだから、今度はもう、どうしていいのかわからないのだ。
「苦しいんだ」
「…生きるのが?」
「俺は生きてるって言うわけ?」
「……美月君はどう思ってるの」
「わからないから聞いてる」
「そういうところが美月君の卑怯なところだよね」
「なにそれ」
美月君はそうやって逃げ道を作るのが得意だよね。そうやって私を翻弄させる。そうやって美月君は自分のことをあやふやにさせる。強いように見せかけて、冷たいように見せかけて、何にも興味がないように見せかけて、一番弱くて暖かくて、不安定で割り切れないのが美月君だよね。そうやって、私は捨て犬を見るように美月君を放って置けなくなってしまうんだ。
「美月君は誠先生と話したの」
「したよ、二回だけ。ユキに無理やり出された」
「それで、統合の話は」
「してない、けど佐和子に説明してるの、知ってるから」
「そっか」
私はもう一度、うつむいた。包帯、佐和子さんの願い、カッターで切った跡、美月君の思考。なにが正しいのかもわからない。だけどとにかく、私の隣にいる美月君が少なくともここにいることを望んでいるのは確かで、気丈な彼が珍しく弱音を吐いているのも事実なのだ。
風がゆっくりと頬をなでる。冷たい、美月君が一度肩を震わせた。
「あんたはさ、多分消えることばかり考えてんだろうけど」
美月君が急に口を開いてでてきたその台詞に、私は驚いて顔を上げた。美月君はまっすぐに私を見ていて、そしてその目は怒っているようにも、哀れんでいるようにも見えて、私は固まったように動けなかった。
「そんなの俺にしてみれば、うらやましい悩みなんだ」
なに、それ、卑怯だよ美月君。そういうのを自分のことを棚にあげてっていうんじゃないの。私はそう思う。そうだ、だって私は美月君のその悩みのほうがうらやましい。そうだ、多分、私たちはないものねだりをしているだけなんだ。多分。だけど美月君のほうが、少しだけ正しいから、だから私はこんなに惨めになるんだろうか。それとも、美月君も同じなんだろうか。ないものねだりで私たちは、どうしようもない絶望に襲われる。そうやって出口のない暗闇の中に放り込まれる。幸せになれるのは美月君でもユキさんでも、春樹でもなく、佐和子さんだけなんだろうか。それとも佐和子さんは、これから彼らの憎しみを背負って生きていくんだろうか。そうやって、十字架を背負っていく人生を、彼女がどう思っているのか私は聞けない。
春樹は、佐和子さんが幸せならそれでいいと、やさしい、切ない笑みを浮かべて言ったけれど、私はそれを望んでいないし、だけど自分がそうなることを望んでいる。
「私は何も言わないよ」
「それでもいいよ」
「美月君が幸せになれればいいね」
「なにそれ、嫌味なわけ?」
「そう思うならそれでいいけど」
私は消えてしまいたいよ、美月君には幸せになってほしいよ、春樹がいとしいと思うよ、佐和子さんが十字架を背負わないでいい人生を送ってほしいよ。
「だけどね、私は自分のことすらいっぱいいっぱいだから、祈ることしかできないの」
せめてそれだけ、せめてそれだけ。本当は心のどこかであきらめてるけど、だけど一方で、私は祈る。美月君が幸せになればいいね、それだけ。
「自分勝手だね」
「お互い様」
私は笑い、美月君も小さく笑った。世界の絶望はそこに存在していたけど、光なんかほとんど届かなかったけど、だけど私たちはお互い顔を見合わせて笑った。
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